「国民の生活が第一、自立と共生、政治の根本について多摩地区で議論する広場」

<田吾作の声> ヤマトの心が恥ずかしい NO.152

 沖縄振興予算が減額になる見込みと新聞が報じていた。政府幹部が基地と予算はバーターだと露骨な発言を行ったが正に現実化した訳だ。ここで見えるのは、カネで民意は買えるという自公政権の考えであり、間違ってもお上には反抗するなという非民主主義的な姿勢である。更に本質的には沖縄蔑視のヤマトの思想があると思う。翁長知事は差別とは受けとらないと大人の対応を示したが胸中の怒りは察して余りある。
 沖縄人(ここでは敢えて県民と呼ばない)の多くはアメリカからの日本復帰を後悔の思いで振り返っているのではないか。沖縄戦直後から沖縄は銃剣による米軍支配が続き土地は取り上げられ、婦女子は性的な虐待に脅かされ続けてきた。復帰運動の中で明治以前の琉球復活を目指すのか、明治以降の日本の一部を目指すのか論争が続いたが、結局は日本帰属への道を選択したという。国内での復帰運動を経験している小生は、そうした事情も知らず「我らのものだ沖縄は。沖縄を返せ」と集会で無邪気に歌ったものだ。復帰後、沖縄の諸政党は本土の系列に吸収され消滅した。ただ一つ沖縄社会大衆党を除いて。その政党が困難な中で生き残り他の政党の接着剤となり今日のオール沖縄の原動力となっている。
 敗戦後の体制転覆を恐れた昭和天皇が沖縄をアメリカに譲渡した歴史的事実は沖縄人にとって許し難いものだが、その屈辱を負いながらも日本復帰を決断した心をヤマトンチューは理解すべきだった。「核抜き」返還と嘘をつき、復帰後も基地は増加し米軍犯罪は野放しのままだ。結局、沖縄にとっては米軍の直接支配の間に日本政府が介在したことで問題が複雑化しただけだった。
 沖縄は植民地ではない。
(2016.8.31)
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<田吾作の声> 障害者問題への視点  NO.151

 7月に起きた神奈川県の津久井やまゆり園での元同職員による虐殺事件は深い衝撃を与えた。その後の報道は必ずしも納得のいくものではない。障害者問題への大きな教訓とすべき機会にと考える小生からすれば疑問を覚える視点が少なくない。
 一つは障害者への理解が社会的には進んでいるのに、一部には遅れた考えがあるとする分析である。障害者権利条約の発効はその頂点を成すものだとし、我が国の障害者問題への歴史的評価を自賛する。残念ながら不埒者が台無しにしているという論法は表面的すぎる。法や制度は整ってきているから社会的理解も高まっているとする行政好みの解釈は間違っている。その証明は今春施行された障害者差別解消法にバリアフリーの義務化を公的機関だけに限定し多数を占める民間法人には努力義務と抜け穴を設けたことが物語っている。要は障害者は自己責任で自由を謳歌せよという訳だ。
 更に腹立たしく思うのは犯人を精神異常者として片づけ今回を飽くまで特殊ケースだとし、措置入院制度を強化せよという分析である。犯人がナチス思想を賛美したことを強調しそれを異常の根拠として徹底した措置を行えと言うのだから聞くに堪えない。歴史を振り返れば戦前の暗黒時代に戦争の批判をした国民は非国民即ち異常者として排除されたのだから、世の中がおかしくなると正否が逆立ちすること位は常識として持てよと言いたい。この過ちは自らも一歩間違えば犯人と同じ行為に及ぶかも知れないとする謙虚な心の欠如である。この証明は福祉を志した専門家による福祉現場での虐待行為を知れば明らかである。多くは隠蔽されしかも繰り返されている。
 ことの本質は差別意識の認識にある。
(2016.8.22)

<田吾作の声> 宴の後にくるもの  NO.150

 リオ五輪は日々白熱化し最高潮に達している。国営メディアNHKはあたかもスポーツ専門チャンネル化し、どのチャンネルを回してもオリンピック関連番組だ。この陰で無視された重要ニュースも多いだろう。
 スポーツが国家間の疑似戦争だとは従来から指摘されたことだが、メダルの数の多寡で国民意識も高揚もするし他国への対抗心も強くなる。ナショナリストにとっては国民精神総動員の絶好の機会でもあろう。首相官邸でのシンゾウの満足そうな顔が目に浮かぶ。
 今回はドーピング問題でロシアがやり玉となり、露骨な政治の影響が見られた。ドーピング自体は大問題だが実質一律排除に近いやり方がとても妥当だとは思えない。当然ながら心理的に不安定な状態に置かれたロシア選手は低調な結果になった。「民族の祭典」でヒトラーが国威発揚に最大限利用した五輪は、形を変え様々なやり方で政治利用されている。例えば「星条旗よ永遠なれ」を聞かされる度に、アメリカのイラクやアフガニスタンを無慈悲に破滅させた侵略行為を正当化し賛美するような気持にさせる。沖縄で狼藉の限りを尽くすアメリカが、県民の前で我々は民主主義のために世界に貢献していると開き直っているのと同じ図式だ。
 問題はリオ五輪後である。成長率2年連続マイナスの開催地ブラジルは先進国特権階層に4年に一度の一大娯楽を提供するために建設した巨大施設の支払いに追われるし、民衆の不満が爆発し混乱することは誰しもが指摘している。世界経済自体がマイナス要因はあっても明るい材料は皆無だ。論理的には恒常的な戦争経済を拡大するしかないし、戦争対象はロシアを始め事欠かない。それがアメリカの見立てだろう。
(2016.8.18)

<田吾作の声> ヒロシマの風化  NO.149

 今年も広島と長崎の被爆祈念式典が行われた。共通するのは先頃のオバマ米大統領の広島訪問の意義を評価している点である。しかし両者の視点がまるで異なることが浮き彫りになったことは注目に値する。ヒロシマでは全面評価されアメリカの原爆投下さえ問わないとするものだったのに比べ、ナガサキでは抽象的に空から落ちてきたのではなく具体的にアメリカが原爆を落としたこと、抽象的に核兵器の廃絶を言いながら具体的には核廃絶の行動が伴っていないことを明確に言い切った。もしオバマが長崎の式典に臨んでいれば恥ずかしくて居たたまれなかったのではないか。
 ナガサキの告発は、シンゾウが核兵器廃絶を訴えながらアメリカの核抑止力に依存する立場をとっていることにも及び、これを矛盾とし解決策として非核三原則の法制化と北東アジア非核兵器地帯構想の創設を提唱した。真っ向から批判された形の総理シンゾウの顔色は悪かった。今や自分は国民の全面的支持を受けていると増長の極みにある彼にとって顔に水をぶっかけられたと同じだからだ。
 こうした被爆両市の姿勢の違いは毎年気にはなっていたが、今年ほど明確になったことはない。同じ被爆者でも対照的だ。オバマに抱かれた者とまだハグされたことのない者の違いではなさそうだ。
 被爆両市へ世界を動かす政治家が訪れる、核保有国のトップが訪れることを反対はしない。だがその引き換えに原爆投下の責任を棚上げにしてただ仲良くでは式典を開く意義さえ無くなる。沖縄人だけはこの状況を理解するのではないかと思う。ヒロシマは復興し被爆の実相が見えなくなっているのに反し、沖縄では戦争被害は隠そうにも隠せないからだ。
(2016.8.10)

<田吾作の声> 本物の自由人  NO.148

 大橋巨泉が死去した。このところ大衆芸能、テレビ界で活躍した人物が亡くなり時代の区切りを感ぜざるを得ない。特に巨泉については個人的にも思い入れが強いだけに寂しい。
 彼は権力とは無縁で終始自由に生きた真のリベラリストだったと思う。そもそも弁舌爽やかな遊び人風の彼への関心は高くなく、麻雀や競馬、ゴルフを語る様には好印象を抱いていなかった。当時は政治の季節でありその時代の社会状況にどっぷり浸かっていた小生には彼の心理構造が理解できなかったのだ。無責任なこうした別世界もあるんだ位の気持ちで突き放して見ていた。
 ところが巨泉の開いた遊びの世界が次々に広がり社会的な主流になってくる中で、物質的に豊かになった日本なのに何のために働くのか、真の豊かさとは何かがテーマとして語られはじめて、俄然巨泉の先駆性が理解できるようになったのだ。
 我が巨泉は驚くべきことに更に一歩先を行きセミリタイアし海外生活を楽しみだしたのだ。庶民には比較できないレベルながら、高齢化社会の生き方を我々に啓示してくれたことは間違いない。要は企業から死ぬまで離れられない生き方をしたり、地域や社会の中で孤立した人生を送ることが珍しくない日本人の老後の生き方にも警鐘を鳴らしたと言ってよい。
 一時、民主党から参議院議員になり当選後僅かな期間で議員辞職したこともあった。当時は批判的に考えたが、民主党は平和憲法を守る党ではないとした彼の主張は正しかったし、民進党になっても自民党と同質の輩が主流を占め体質は変わらない。いみじくも参院選の直前に命を閉じたのは、右派勢力の大躍進という結果を見たくもないとする彼の思いだと勝手に解釈している。
(2016.8.5)
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