「国民の生活が第一、自立と共生、政治の根本について多摩地区で議論する広場」

<みうらのま> 橋下徹さんと直感的理解について 1/2

 橋下徹という人は人気がある。
 これは事実として、彼を嫌いな人も認めなきゃいけないと思う。
 でも彼が職場の同僚だったら、すごく嫌だ。一緒に机を並べるのを想像しただけでゾッとする。
 それが私の「直感的理解」。

 一方で矛盾するようだけれど、彼に期待する人の気持ちは理解できる。
 現状に不満を抱き、誰かに打開して欲しいと願うとき、彼はとても頼もしく、弁舌さわやかに旧弊を罵倒する様が、なぜか日頃の鬱憤を晴らしてくれる。
 不満を溜め込みながらも、生きるのに精一杯、情報を集めたり考えたりする余裕なんてない、誰かに手っ取り早く状況を打開してもらいたい、そんなストレスを抱える人たちの真摯な期待が、細川政権に始まり、「自民党をぶっ壊す」の小泉改革、民主党政権を経て現在へと変転した20年の政治の基底に流れている。
 この流れは、最近の米国も同様で、敵を過激に口撃して湧き上がる歓声を追い風に、誰も予想しなかったダークホースが共和党の候補者指名争い首位を走ってる。

 傷ついた獣は近づく者すべてを敵とみなす。自分をとりまく既存のシステムすべてを敵視する人間にとって、破壊する力を持つ者はそれだけで神。旧来の何を破壊し将来に何を構築するかなどよりも、彼が現に破壊的力を持ち、それを行使しつつある、て所に価値がある。てことは、嘘つきとしての「過去」や独裁者としての「未来」を根拠に、この「英雄」を批判するのは的外れなのかもしれない。
 国民の多くは、既得権益と予定調和してる知識人の評論にはウンザリしていて、とにかく目の前の現実を派手に変えてくそうな人を求めているんだな。
 このような(平野妙観のいう)「民衆の無意識」のうねりに対しては、べき論を説いたり、情弱や民度を嘆いてみてもはじまらないわけで、、、あ、田吾作師匠に「長いコラムはダメ」と教えられたんだった。(汗)

 以上、前置きが長くなりましたが、上記を前提に話を後半に進めたいと思います。

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<田吾作の声> 人身御供となった若者  NO.115

 軽井沢でのスキーバス事故は多くの若い学生の命を奪った。例の通り当局側はツアー会社など関係先を捜索/追及している。原因究明を否定するものではないが、同様の事故を繰り返されているのだからもっと根本的な解明こそが大事だろう。
 過去5年だけでも吹田市や関越自動車道の大事故があり、その都度、国は過剰労働の乗務員の乗務距離を短くしたり採算割れの過当競争を鎮めるため基準運賃を設けたりなどの応急措置をとってきた。その対策そのものが的外れであったことを今回の事故が証明している。
 そもそも2000年の貸し切りバスの規制緩和が引き金となって業界内の過剰競争が勃発した。この方針が明らかになった時から、人命に影響するとの懸念が指摘され反対の声が強かった。安全など気にもせずビジネスチャンスと飛びついた海千山千の業者が参入し、会社数が2倍になったという。一方で3Kの職業だと嫌われる大型バス免許者の数は年々減少し、しかも弥縫策の一環で2人乗務が増えたことが乗務員不足と労働強化に拍車をかけたという流れだ。絵に描いたような規制緩和の間違い例だ。
 厚労省と言えば働くものの立場に立って労働行政をすすめるべきなのに、安ければ良しとする資本家の立場を忖度した指導がまかり通っていないか。最低賃金決定に際したった1円単位(10円でない!)の引き上げに経団連の顔を気にしている官僚の姿勢がこの国の実相を物語っている。バス協会に入らない雑魚みたいな業者をいたぶっても何も変わらない。警察も同様だ。
 マスコミは犠牲者の告別式を報じ悲しみを演出することに余念がない。SMAP解散報道と同レベルで論じられてはたまらない。今回の事故は人災だと何故追及しない。
(2016.1.22)
 

<田吾作の声> 高齢化社会の一断面    NO.114

 最近の出来事だが市の環境講座に参加した時の体験である。生ごみを自家処理して焼却ゴミを減らそうという趣旨の会合の中で、参加者による討議時間が設けられた。主催者側は生ごみ堆肥化の活動に参加したいという声を期待した筈だが、論議の中心は意外な方向に展開した。
 ごみを出すのにも収集所まで運ぶのが苦労で大変だ、分別だってしんどくなった、昔は生ごみ処理の活動に参加したが最近ではとても気力が伴わない、などと意見が出始めこの流れは止まらない。要は(明日の)環境も財政も重要だろうが我々にとっては(今の)ゴミ出しの苦労が深刻なんだという訳だ。高齢化社会の矛盾をもろに感じる場と相成った。
 そうすると自家処理という方法だけでは解決しないことがはっきりした。ドイツなどでは住民が生ごみを収集所に出しそれを行政が一括して集め堆肥化処理するという循環型社会を実現している。先進地の事例を導入する時期が到来していることを実感した。
 実現すれば大量の堆肥が発生しその使用先が問題となるがそれは農業が盛んな東京以外の他県と連携すれば一気に解消する。コスト問題も出てくるが発想を大きく膨らませれば新たな時代に向けた橋頭保にもなり得る。どんな課題も時代環境の変化の中で見直しは避けられない。生真面目だが悪く言えば融通が利かない市の職員も現実の住民の声を直に聴いたことで変化の重要性を学んだ筈と期待している。
 尚、討論の中で若い人から高齢者の手伝いになれば何でも協力したいという声が出たが、参加者一同に深い共感をもって受け止められたことは言うまでもない。それにしても地域生活の場でもあらゆる分野で超高齢化社会の影響が出ていることは間違いなく事態は深刻である。
(2016.1.18)

<みうらのま> 民主主義ってなんだ?


直感的理解てなんだ?
 昨年、国会前でコールを聞きながら、フェラ・クティの言葉を思い出した。
 「Teacher Don't Teach Me Nonsense」という曲の一節、「Democrazy, DEMO-CRAZY. Crazy demo. Demonstration of craze, Crazy demonstration」。
 生前、彼は「アフリカにデモクラシーは通用しない」と語っている。「白人によって持ち込まれたアフリカの混乱は、白人が持ち込んだ「デモクラシー」では解決しない」と。
 君主制?のんのん。いわく、昔、アフリカ人同士は道ですれ違うだけで相手と自分の力関係を直感的に理解した。だから争いは起きなかったんだ、と。

民主主義ってなんだ?
 一人ひとりに考えることを求めるこのコールが好きで、何度も「あんた達もチョット考えてみてよ」の想いを国会議事堂に投げつけた。でも、民主主義を錦の御旗に「おまえら民主主義じゃない」と断定して攻撃するのは筋違いだと思ってる。
 「私が神だ」という人は神じゃないし、「これが自由だ」という発言は自由じゃない。他にも「祈り」とか「死」とか、分かっているようだけど一歩踏み込むと同義反復や「~ていうんじゃなく」式の否定形でしか規定できない種類の言葉がある。
 「民主主義」ていうのも、そういう類の言葉なんじゃないか。
 その類のモノって、固定化されたらオシマイ。偽物の死物と化し背反する相手とも簡単に結びついて、例えば「民主的独裁政権」とか「民主的権威主義」なんてのだって成立しちゃうだろう。
 屍のような言葉が暴れまわると、理念は天の岩戸に隠れて、暗い世界に災いが振りかかる、ってのが平成27年までだった(と思いたい)。

これだ!?
 「民主主義ってなんだ?」に対する「これだ!」は、国会前に集まった人たちの、「主張」ではなく「姿勢」、「『なんだ?』と問い続ける姿勢」を指している、と解したい。「我らの主張こそ、民主主義なのだ」なんて言ってしまったら、「地方の人や仕事で国会前に来られない人の民意はどーすんだ」という橋下徹氏の悪意に満ちた子ども騙しのツッコミに、私も共感せざるを得なくなる。
 議会制民主主義国家の国民としての姿勢を(私達同様、私達の代表である)国政を担う方々も共有してね、という呼び掛けでありたい。

 フェラ・クティが嘲笑するように、人(政治家)を直感的に理解する能力が退化してしまった私たちはきっと、Crazy Demonstration、狂気を実演してしまう。少なくとも、民主主義には、そういう一面があるてことを忘れちゃイカンのだろーな。

<田吾作の声> 呉 越 同 舟  NO.113

昨年末だが「戦争いらない市民連合」の会合に参加した。慎重に考えトップが代々木でないのを確かめ出席したのだが、予想通り代々木所属の市議全員が参加するなど彼らの熱中ぶりを改めて知った。彼らとの確執は青春時代から続き、居住していた県委員会まで殴り込み同然の抗議行動を行った位だから文字通り犬猿の仲である。

民主的と主張しながら決まったことを守らない、一旦合意した筈の約束事を中央の指示で反故にする、暴力反対といいながら裏舞台で暴力を振るうなど、彼らへの不信は数限りない。だがそうした実態を知らない今の時代、不満の行き場のない学生層に支持が広がっているのは当然かも知れない。別の機会だが代々木への不信を口にする小生に、前回は生活の党、今度は共産党と軽々と政党の壁を飛び越え運動する若者に、「そうした既成概念が古いんですヨ」と窘められた。腹の中で、「裏切られなくては解らないだろう」と呟いたものだ。

志位委員長が反自公の本格的な選挙協力を言い出し、独自候補の取り下げなど具体的な姿勢を示している。暫くは様子見を決め込もう。何故か、それは民主集中制という絶対的な中央集権システムの変更をしないこと、自らも日本を原発だらけにした方針を明確に変更しないことに要約できる。

原発反対運動に対して科学を知らないものと断罪し、安全な原発こそが未来を開くと高言した場面を忘れない。ところが311時は、「一貫して共産党は原発に反対してきた」などと言辞を振りまいたのだ。選挙制度が定着し投票行為が当たり前になった時代に1党独裁が通用すると考える時代感覚も遅れている。

先の会合では必ずしも本意でない表現だがマルクス主義の批判という形で彼らを批判した。

2016.1.6

<田吾作の声> 強者の論理  NO.112

日韓の間で懸案となっていた慰安婦問題が「解決」した。両国マスコミはともに大勢は好意的だと報じている。実態は行き詰っていた政府同士の急場しのぎの妥協の産物に過ぎない。韓国は経済事情であり日本は歴史修正主義への国際的な批判だ。「決断」を促したのがアメリカというのは誰しもが読む筋書きだろう。

問題は押し切られた韓国内での対立とその後の展開である。今まで否定してきた「軍の関与」を豹変して口先だけにせよ認めた日本だが誠実さは感じられない。元慰安婦支援財団に金を出す、だから二度と文句を言うな、これで不可逆的な解決とする。こうしたやり方に関係者やまともな韓国人なら怒るだろう。政府批判は強まるし、政権交代で「左派系」民主党の大統領登場という事態が現実的になったと思える。我々日本人が韓国の立場で考えれば予測できることだ。

辺野古新基地建設問題は政府と沖縄の対立が抜き差しならない状況にある。この国内対立を素知らぬ風情でアメリカはいる。しかしオバマの操り人形ケネディ大使が辺野古建設を「ベストの選択」と発言したことには、さすがにアメリカ内部から痛烈な批判の声が出された。

慰安婦問題でも見られる強者の弱者への押し付けと傲慢さは同質である。ただ辺野古と違うのはアメリカの指令で日本が動いたことであり日本人としては二重に複雑な気持ちになる。想定される韓国内の混乱には他人事と無視できるのは親分アメリカの立場と全く同じだ。力は正義だ、を地で行く国際政治の本質を露わにする。かくて、敗者の心に憎悪、憤怒が蓄積され理性の蓋を吹き飛ばす事態が生まれると思う。

侵略や敗戦はなかったという立場のシンゾウが歴史の不可逆性を説くのだから噴飯ものだ。

201512.31

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