「国民の生活が第一、自立と共生、政治の根本について多摩地区で議論する広場」

<田吾作の声> 遺跡を軽視した歴史観

田吾作の声 NO.35

縄文中期の遺跡発掘調査を視察する機会があった。山梨の諏訪原遺跡で昭和女子大の学生が炎天下で作業する様を眼前にし感動を覚えた。歴女という言葉が近頃使われ出したが彼女たちはまさしくそれで、歴史も知らずに朝鮮人差別に腐心するヘイトスピーカーどもとは真面目さに於いて大違いだ。小生が縄文文化に関心を抱いたのは3年位前からで、東北の歴史を知る中で原日本人としての縄文人をより知りたくなったのが動機である。

弥生文化との関連、日本人への精神面での影響など興味の幅は広がるが、民族としてではなく、国境を越えたコスモポリタンとしての縄文人への興味が一番だ。現在の理解の範囲で縄文人の特徴は、自然と共生する自由人というのが答えだ。先輩氏に教えて頂いたのだが土器をとっても非対称性という高度なものだし、単純に後世の弥生文化が優れているという見方には同意できない。

その日は同じ山梨県の釈迦堂遺跡博物館にも寄ることが出来た。中央高速道の建設工事中に発掘された土器や土偶が展示されていてその迫力に圧倒された。かって何回も中央道を利用しながら博物館の存在自体を知らなかった己の無知が恥ずかしかった。館側の計らいでまだ整理途中のものが何千とある倉庫を見せて貰ったのだが、山積みとなっている未修復のものを前にすると驚きと同時にこの国の貧困な文化行政への怒りを禁じえなかった。予算の都合がつかず放置されたままにされているのだ。ここだけで重要文化財と指定されたものが1000以上に達するという。

新自由主義的な考え方が国の政策に蔓延し、直ぐに結果が求められ長期的な時間が必要な基礎的学問分野は軽視されている。こうした現場にも悪影響が出ているのだ。

2014.824)

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<田吾作の声> 言葉が泣いている

 田吾作の声 NO.34

 テレビで総理シンゾウの空疎な声を聴くのが嫌で音声を消してニュースを見るようになった。言葉に意味や誠意がこもらないこれ程迄の政治家は他に知らない。どこかの泣きわめく地方議員のほうが余程心情が伝わってくるから不思議だ。何故、類稀な破壊された性格を持つ政治家が生まれたかは研究に値する。
 原因の多くが嘘を平気で言うことにある。代表的なものは積極的平和主義という言葉である。平和とは対立する概念である戦争が出来るような仕組みを平和主義の名の下に進める、憲法違反である集団的自衛権の行使を解釈変更というやり方で。それも積極的なる修飾語を冠して使うから、言葉を大事にする人にとっては汚されたという気持ちだろう。
 彼は様々な悪法を与党有利の国会を背景に通してきた。その度に世論の反対の声に対し、「これからも丁寧に説明責任を果たしていきたい」という言葉で応じてきた。勿論、これも嘘だった。
 人と人を繋ぐのは言葉でありそこから信頼が生まれてくる。しかし彼の論法だと言葉自体が成り立たない。単純な例では「綺麗だ」と言われても逆の意味で使っていると考えれば信じられない。そこには会話も成立する訳がない。今となっては近隣諸国との対話が全く途絶えたのも彼の登場時から予想すべきことだったと思われる。
 言葉は元来が責任を伴うものだ。だから会話が深まった暁に愛情や商談がまとまるといった形で結実する。裏付けのない言葉を幾ら連ねても聞く者の心を打たないし相手の心に通じない。
 8月は平和の季節の筈だが、式典でのシンゾウの声が響くのは不吉だ。もっとも撤退を転進と読み替え、敗戦さえ終戦という言葉でごまかした日本には相応しいトップかも知れないが。
(2014.8.17)

<田吾作の声> どちらが異常?個人と社会

田吾作の声 NO.33
 佐世保の女子高生による同級生殺害事件の社会へ与えた衝撃度合いは計り知れない。高学歴、エリート家庭での事件ということもあるが、首などの切断や解剖を行った残忍性や被害者を仲のいい友達だったという理解しがたい心理状態など複雑な要素が含まれマスコミの好餌となっている。
 反応を見ると、人の命の尊さを教える教育が足りないという意見がまず目に飛び込んできた。誰しもがこの意見に異議はないだろう。が、教室で百篇教師が説教して防げるような事柄ではないと思う。何故なら教室を一歩出れば如何に人命が軽く扱われているか生徒は否が応でも知ることになるからだ。取り上げるのも憚れる残忍な事件が、夫婦・家庭・職場・同僚・師弟など日常的な人間関係の中で、夥しいほど起きている。通学の電車に飛び込み轢死する事件も珍しくはない。初心な心には「何かこの世の中はおかしい」という疑問符が刻印される筈だ。
 ましてや、外国に目を転ずると普通の婦女子が理不尽な攻撃で泣きながら逃げ惑い、無造作に大量殺戮されるニュース映像が流れるのが珍しくなくなった現在、人間性の涵養などできる訳がないと思うのが常識だろう。確かに人間には慣れという免疫特性を具備している。しかし物事には慣れていいことと慣れてはいけないことがある筈だ。人命は地球よりも重いとも言われるのだから、粗末に扱われる命に衝撃を受けるのは当然である。
 この少女は地検へ送られ精神鑑定されるという。要は異常者として定番処理され一件落着となる筈だ。人間社会とは思いたくないような崩れた現代社会に素直に影響された者が落伍者として放逐される。本質が変わらない中で類似の事件が再生産されることも間違いない。
(2014.8.15)

<みうらのま> 森ゆうこ名誉毀損裁判におもう。

 生活の党 前参議院議員 森ゆうこが一市民Tこと志岐武彦を名誉毀損で訴えた裁判が7月18日の午後、東京地裁で結審した。
 311なども経て、忘れられた感のある陸山会事件だけれど「日本版オリーブの木は、陸山会事件への評価を踏み絵にするべき。そうしないと、また簡単に分裂させられちゃう」と言い続けてきた身としては、本件のような場外乱闘も一応、ウォッチしてみた。

 まずは、かいつまんでコトの経緯を。
 最初は共に陸山会事件における第五検察審査会の疑惑に挑んでいた両者だが、捏造報告書がロシアのサーバーから漏洩し、その内容から、検察審査員がインチキ報告書にだまされた、と考え検察を追求する森氏に対して、志岐氏は別の仮説を考えた。つまり、第五検察審査会が架空(実際には開かれていない)であることがバレるのを怖れた最高裁が、故意に捏造報告書を漏洩させ、森氏に検察を追求をさせることで、矛先を最高裁から逸らせた、と。

 したがって志岐氏によれば、森氏は「最高裁追求を止めて、議決は検察の捏造報告書の誘導のせいにしてでも小沢氏の無罪判決が欲しかったのではないか」、森氏が最高裁と組んで(小沢氏の無罪判決と引換えに)疑惑を最高検から検察へと誘導したのでは?というストーリーになる。
 で、それは名誉毀損でしょ、と森氏が志岐氏を訴えたワケ。

 これに対して判決は、ブログは「事実の摘示ではなく」志岐氏個人の「意見ないし論評」「評価ないし意見」であって、これにより森氏の「社会適評価が低下したと認めることはできない」ので請求を棄却、となった。
 判決に記された3つのエントリーに対する個別の裁判所の解釈には「えー?」て部分もあるが、まあ、それは「(裁判官には)そう読めたんでしょ」てことなので問わない。
 それよりウォッチャーとして残念なのはブログが「事実」の摘示だったか否かを争う前に「事実の摘示ではなく」「評価ないし意見」なんだもん、という玄関前で決着してしまったことにある。

 どんな推論をブログで発表するのも自由だと思うけれど、それ相当の事実に基づかないと単なる中傷、名誉毀損の怖れがある。本件では土台となっている事実が「X氏に(『私が漏洩させた』と)聞いた」というもの(で、そこから「X氏は森前議員と平野貞夫のためなら何でもやるという感じの男だ」から「X氏が流したということは森前議員側が流したということだ」と発展する)。志岐氏がX氏から聞いたことを信じるのは自由なのだが、私はそこに簡単には同調できない。何を目的に(森前議員のためなら何でもやるという感じの)X氏はそれほどの国家機密を(森前議員を裏切ってまで)一市民のブロガーに漏らしたのだろうか。
 裁判報告会の動画で志岐氏は彼がX氏の話を信じる根拠を「ソフトの専門家だし、防衛庁や検察にも出入りしている」などと語っているが、霞ヶ関周辺にはその手の自称事情通は数多く棲息しているだろうし、信用する根拠としては弱い(てゆか「そんなんで信じちゃったの?」という「痛々しさ」さえ感じる)。そこで私の「評価ないし意見」としては、この老人がX氏を盲信しているか、盲信しているフリをしているように、どうしても思えてしまう。※1

 といった認識なので、裁判が玄関前で決着してしまい、X氏が裁判にまったく関与しなかった、というのが残念で仕方がない。
 もし(志岐氏がいう)X氏の証言が真実なら、森氏は機密資料を議員特権で入手し、流出させたことで、国家公務員法、刑事訴訟法、著作権法などに違反し、その内容からして週刊誌向けの大ニュースになる。この事実は志岐氏が追求する「最高裁の闇」を解明する一里塚にもなるはず。なので志岐氏には、今回の「ブログは森氏の社会的評価を低下させてはいない」てだけの勝訴に満足せず※2、今度は「論評」としてではなく、X氏を通じて、より実効性のある方法で真実を追求して欲しい。でないと本件は読者にとって、恒等式(Xという未知数にどんな値を代入しても成り立つ方程式)を弄んでいるようにしか見えない。

 ちなみに私自身は最高裁・森氏首謀説には与しないが、仮に森氏が機密資料を流出させたとしても、それ自体は尖閣ビデオを流出させた一色正春氏みたいなもんで、(刑事責任はあるとしても心情的には)称賛されても批難されることじゃない、て思ってる。検察官による報告書の捏造を知ったのに刑事責任を怖れて行動しないようなら、それこそ政治家の看板を掲げる資格なんか無い、とさえ思ってる。

 判決当日、開催された判決報告会(シンポジウム)では、福島原発告訴団の方が登壇している。疑惑の第五検察審査会で審議中ということであったが、本件は31日、勝俣恒久元会長ら元東電幹部3人に「起訴相当」と議決した。めでたい。




※1
志岐氏の説を妄想であると断定するつもりはないが、仮説に従えば最高裁は陰謀渦巻く霞ヶ関の頂点に君臨し、森氏はその組織と手を組んで検察庁を陥れる暗躍をした。それほどの大物議員の現状はどうだろう。今、森氏は小さな集会を各地で開き、支持者による小規模な新潟ツアーを組み、腹心の秘書は逗子の実家に戻り遠隔で仕事を継続していると聞く。志岐氏の仮説と森氏の現状との間には(少なくとも私には)埋められないギャップがある。

※2
今回の森氏の請求棄却は「志岐氏の仮説が裁判所に認められた」ということでは(決して)なく「そんくらの『意見』はブログに書いてもいいよ」ていうだけのこと。そこは誤解が無いようにしたい。

参考
判決文
http://goo.gl/KfGcey
別紙
http://goo.gl/2oCsi4
問題のブログのエントリー
http://civilopinions.main.jp/2013/07/729_1.html
http://civilopinions.main.jp/2013/08/811.html
http://civilopinions.main.jp/2013/08/817sapio8.html
判決報告会(動画)
http://goo.gl/TS0F3E

<田吾作の声> 核兵器削減はサルでも言える 

田吾作の声  NO.32

 8月は戦争と平和のことを考えさせる時節だ。被曝69年の今年も広島に続いて今日は長崎で平和祈念式典が行われた。それにしても、広島の総理シンゾウの挨拶内容が昨年のものと寸分違わぬものだったのには驚いた。こうした馬鹿げたことが起きるのは彼が平和について普段考えていないこと、矛盾する政治を遂行しているため慎重に言葉を選ばねば直ぐに馬脚が現れるという心配のためだと思う。
 集団的自衛権の行使容認という憲法違反の内容を解釈だけでやってのけた彼に対して、長崎では市長も被爆者代表も意義を唱えた。広島の姿勢と明確に違うのはこの点だった。戦争を人類史上初の核実験台のモルモットにされるという痛切な体験で終わらざるを得なかった長崎市民の声には平和を望む思いが滲んでいる。シンゾウが発する「集団的自衛権が平和を守るためのものだ」との空虚な言葉とは重みが違う。そこには必死に生きる生活者の匂いがしないし、辛い戦争体験(戦後生まれの彼にとっては追体験)の感覚が全くない。
 現実政治に追認する広島、必死で抵抗する長崎。今年の両被爆地のあり様の違いは、風化を認めるか否かの本質に関わる問題でもある。長崎市長はフクシマへの思いをはせることで核兵器だけでなく原発ノーの方向性も明確にした。つまり、核兵器廃止だけにスローガンが止まれば、単なる精神条項でアメリカも、中国もロシアも核兵器保持国も平気で参加できる。原爆投下国アメリカでは、原爆が戦争を終わらせたという歴史的捏造が常識となっている。
 話題の人、J・F・ケネディの娘が式典に列席した。彼女に伺いたい、あなたはまだ原爆が戦争終結のためだと思っているのか、原発は必要だと思うのか、と。
                           ( 2014.8.9)

<田吾作の声> 心を揺さぶるガザ

田吾作の声   NO.31
 『ガザ・ゲットー』を書いてから1週間経った。パレスチナの死亡者数は1,600人を遥かに超えたらしい。双方の戦力の違いを考えれば、当然の結果で予想されたものだ。
逃げ場のない巨大なガザ収容所に向けたイスラエルの無差別攻撃を止めさせない世界各国の姿勢こそが問われている。現地で救援活動に常駐している国連機関さえ標的にされるほどイスラエルによる狂気の暴虐行為は続いている。余りの酷さに国連の男の関係者が泣き崩れていた画面が印象的だった。傷つき怯える児童の姿は珍しい光景ではなくなった。生まれてから戦火に逃げ惑う彼/彼女たちは平和や豊かさとは無縁で生きてきたのだろう。仲間や親兄弟が死ぬ中で傷ついても生き伸びただけでも幸いだったと思うしかないのだろうか。
 こんな惨状を目にしてもイスラエル世論は圧倒的にガザ攻撃を支持しているという。その背景にはユダヤ教の指導者であるラビの存在がありその有力者が、徹底的な攻撃を鼓舞しているニュースがあった。イスラエルという宗教国家はユダヤ教原理主義の国であることを改めて教えられた。ハマスをイスラム原理主義者として悪のイメージを与え続けるマスコミだが、狂気のユダヤ教原理主義についても公平に報道して然るべきだが歪んだ姿勢を正そうとはしないだろう。
 アメリカの暴力とカネの力でイスラム圏諸国は正義の牙を抜かれエジプトを中心に多くがパレスチナと距離を置いている。パレスチナは孤立を強いられているが、今回のイスラエルの残虐行為がアラブの民の心を揺さぶり、同胞への理不尽な攻撃に何ら行動しない自国の政府に対する批判が強まっている。人間としての生き方が個人はもとより国家にも問われている。当然である。
(2014.8.3)
プロフィール

日本一新の会 (多摩出張所)

Author:日本一新の会 (多摩出張所)
<特別寄稿を募集致します>
当出張所では、森友問題について
「自身でブログを開設するほどではないけれど、ぜひ物申したい!」というあなた様の原稿を
tama.nipponissin@gmail.com にてお待ちしています。報酬はございませんが、必ず(明白な悪意や公序良俗に反する場合を除き)掲載させて頂きます。
よろしくお願い致します。

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