「国民の生活が第一、自立と共生、政治の根本について多摩地区で議論する広場」

<みうらのま> 中二病国家の死刑制度

オウム真理教事件7人の死刑執行を、海外の国や人権団体が抗議している。
しかし、世論調査では、約70%の人が死刑制度に賛成している。
世論調査で国民の大多数が反対している法案を強行採決する安倍政権の姿勢を批判してきた人達は、嫌でも、部分的にでも、苦虫を噛み潰してでも、本件をホメてあげなくてはならない。

長年、繰り返されながら、ちっとも深まらない死刑制度の賛否両論については、いかにも耳タコ。ここではイカ・タコ踏まえて、あえて死刑制度に賛成してみたい。

死刑制度に賛成なのであれば、海外からの人道に対する抗議に対して「内政干渉だ!」と声を荒げるかというと、そんなことはない。
彼らの主張は正しい。ただし、それは成熟した近代社会においてのこと。
マッカーサーが指摘したように終戦直後の日本人の精神年齢は12歳だった。
あれから、73年が過ぎて日本人の精神年齢は、たぶん今、14歳くらいではないか。
人生を受験競争だと思ってる役人、反知性主義でヤンキー指向の政治家、臆面もなく「日本、スゴイ」が娯楽のテレビ番組、今、この国が中二病国家である事例を上げれば、枚挙にいとまがない。

猛獣に襲われて「話せばわかる」と応じる人はいない。
理性や思考による抑制よりも不安や欲望による衝動で指針を決める未熟な国民を治めるには、刑罰の恐怖に訴えるよりほかに術はなく、やむなく死刑制度が必要悪として許容されているとすれば、夜郎自大の総理を選び続ける国民にしては、謙虚で冷静な自己評価ではありませんか。

というわけなので、成熟した諸外国や人権団体の皆さまにおかれましては、未熟な民族性を情状酌量のうえ、この野蛮な制度の存続を、どうか、お目溢しください。
先進国の皆様におかれましては、7人の死刑執行前日に法務大臣が赤坂自民亭の女将を務めちゃってる我が国に、ODAによる人権の再教育をご検討くださいますよう、切にお願いいたします。




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<みうらのま> 死霊の盆踊りとしての平成

神戸の「世界一のクリスマスツリー」あたりからだろうか。私のタイムラインで、糸井重里氏への風当たりが強い。
ここでその是非を論じるつもりはないが、糸井重里氏といえば、80年代に青春を過ごした私にとって、当時を象徴する人物。時代を相対化して眺めるのに相応しい40年という月日が経過し、80年代の総括が始まるに際して、彼が今も第一線で活躍していることは、幸運としかいいようがない。

私が大学生の頃、いわゆる戦争責任論という議論があった。(以前からずっとあったのだろうけれど、論壇雑誌などに縁遠い享楽的な中高生であった私には知る由もない)
それを私は、「そんな大昔のことでも、当人達にとっては大事なことなんだろうな」と横目でながめていた。その頃の「そんな大昔」、つまり太平洋戦争もまた、40年前のことなのであった。

80年代の風潮は、そんな議論を丸ごと、オシャレで知的でユーモラスなコトバによって葬り去っていったように記憶している。
あれから40年の潜伏期間を経た現在、日本会議というゾンビが政界を跋扈しているのは、あの時の葬り方がまずかったのだろう。

80年代に発生した知的で柔らかい全体主義は、「ほっこり」や「癒し系」などとして、今また需要を拡大している。一方、この反動で90年代後期に匿名掲示板から発生した、嘲笑を武器とする「ネトウヨ」くんも増殖中。これらもやはり、葬り方がまずかったか。

推測するに、80年代の風潮も70年代に衰退化した全共闘世代への反動であったのではないか。国会前抗議行動、議員会館の勉強会、憲法記念館の集会に集まる団塊世代の方々もまた、政治的に成仏できない魂なのかも。

妖怪大戦争、死霊の盆踊りとしての平成が終わろうとしている。

<みうらのま> 船出はいつも、こんなもんさ

田吾作先生と被るのだけれど、やはり、米朝会談について書いてみる。

というのは、報道番組の解説や新聞の社説の論調が、「大成功」と「大失敗」の間のどこかに、社風に見合った落とし所を探しているように見えるから。
戦争と平和を両極に置いて、左右に振れながら一喜一憂する単純さが心配になっている。
私には、どうしても、米朝会談によって、戦争と平和の両方の可能性が高まったようにしか見えない。

「大成功!」と言いたいトランプにしてみれば、米朝合意の不履行を理由に、いつでも戦争を始められるカードを手に入れたわけで、してみれば「大失敗!」と言いたい人たちが指摘する「合意文書の内容が抽象的すぎる」という批判は、そのまま、カードの適用範囲の広さという賛辞になる。
安保理決議こそないものの、米国が核兵器廃絶の進展義務違反を理由に戦争をおっぱじめるのに、事実の有無など問題にならないことは、イラク戦争で経験済み。
トランプにしてみれば、ノーベル平和賞を受賞した後に「北朝の自由作戦」を開始して、武器商人からの報奨も手に入れるのが、合理的選択。もちろん、そんなことは金正恩だって、百も承知なはず。

米朝の戦争になれば、日本は後方支援ではなく、最前線で戦争をするハメになる。ここ数年の法整備を見れば、それは列車が終着駅に至るが如き必然であったと、後の歴史家は分析するだろう。

私は、南北統一や太平洋戦争の完全終結の夢に水を差すつもりはないし、その実現に悲観も楽観もしていない。
ただ、賽は投げられた、と感じている。
国へは戦争でなくて平和、人へは服従でなくて自由、そこに帰着させる勝算も準備もないまま、二人の狂人によって、ついに幕が開けられたのだな、と。

30年前に聞いた歌の一節を思い出している。
「船出はいつも、こんなもんさ」

<みうらのま> 幻想の右翼、幻想の左翼

幻想の右翼、幻想の左翼

大学の頃、バイト先の古本屋のオヤジが大学のアジビラを見て「マルクスも読まずに左翼を名乗るな」と毒づくのを聞いて、左翼という人たちの気高い敷居みたいなものを感じた。
最近は反安倍をSNSでつぶやけば左翼の認定をいただけるので、とてもハードルが下がったように思える。

右翼に関しても同様で、昔のような天皇への忠誠心や政治腐敗に対する憂国の至情から政治家暗殺を企てるような国士を右翼と呼び、そんな人たちが現存するのであれば、佐川元理財局長のような国会証言や麻生財務大臣のような記者会見はありえなかったはずだ。
今、右翼であるためには、「米朝会談をやる」と聞いては賛成し、「やらない」と聞いては賛成し、「やっぱりやる」と聞いてまた賛成する安倍政権に対して盲目的に追従をしていればOKらしい。

そんな現在の左翼はパヨクやブサヨ、右翼はネトウヨやバカウヨと、明確に呼び分けるのが、草葉の陰に眠る左翼や右翼の方々への礼儀のようにもおもえる。
しかし、そのパヨクがネトウヨを攻撃する時、その背後に右翼の祖霊を、ネトウヨがパヨクを攻撃する時、その背後に左翼の祖霊を見て、相互に絡み合っているとすれば、無関係と切り捨てるのも、理屈に偏りすぎているだろうか。
現実には、ネトウヨの脳内に住む左翼と同様に、多くの国民が右翼と思っている人たちも、すでに存在しないか、絶滅寸前の希少種なのだろう。

名前を頼りに脳内で肥大化させた敵のイメージと闘う行為は、妄想性障害のある依存症患者と変わりなく、社会にとっての害悪でしかない。議論ではなく、治療が必要な人として対処するべきなのだ。
まず、ネトウヨを「ネットにウヨウヨいる人たち」と再定義して右翼の概念から隔離する。次にネトウヨに敵対する人たちに新しい名前を与えて左翼のイメージを払拭することを提案したい。
「ネトリベ」は「ネオリベ」みたいだから、却下。

<みうらのま> 肩身が狭いぞ、小選挙区制

あいかわらず、いろいろな場面で肩身の狭い思いをしている。
理由はもちろん、平野妙観が小選挙区制導入の仕掛け人であることによる。
それでも私なんぞは、小沢一郎氏よりも平野先生に心酔する当会の異分子なので、まだマシなのかもしれない。多くの会員は折々、居心地のわるい思いをしているのではないか。

目を覆うばかりの行政の劣化の数々も「なぜこんなことに」と嘆けき問えば、どれも諸悪の根源=小選挙区制説に突き当たってしまい、壁とキャッチボールをしてるよう。

メディアの劣化や国民の意識など、まとめて民主主義の成熟度を盾に反論してみたところで、「それを予想できなかったんだ?」と鼻で笑われれば、あとは何を言っても責任転嫁に聞こえてしまう。
かといって、不都合な部分に沈黙しながらする連帯というのも、気持ちがわるい。

もっとも、私は三年前に、小選挙区制についての立場を表明している。まとめれば、
・当初の目的であった、いわゆる二大政党制は民主党で役割を終えた
・今後の政局は「一強(+眷属) vs 多弱連合」が標準となる

あれから3年、「一強」の凶悪化に相対して「多弱」の側の求心力は高まる一方、国民民主党や立憲民主党など、「多弱」の側が分裂と融合を繰り返しているが、それは多様性を求めている以上、自然なこと。
近未来予想としては、今の所、大きく外してはいないぜと、鼻の穴をふくらましている。

私の小選挙区制についての考え方は、小選挙区制導入時に夢見た「政権交代のある政治」を否定するものではない。
でも「二大政党制」は否定している。けれども私はそれを「二大政党制」の進化形だと考えているので、どうか、いじめないでほしい。

三年前には小沢一郎支持者の方々から、山本太郎氏への不信感を何度も聞いた。陸山会事件を経てきた小沢ファンには政治通が多く、山本氏はシロウト同然だったのだから、当然ちゃ当然。しかし、現在は期待する声が圧倒的になった。
「多弱」の側が柔軟になっているのは、ひとえに安倍内閣による悪行三昧の産物なのだけれど、これが図らずも、対立軸を明白にしてくれたようにおもう。
つまり、
「不安と恐怖に怯える人たちのための強固な中央支配 」
vs.
「自由と平和を愛する人たちによる、ゆるやかな連帯」
だ。
こう書くと安っぽくて、ホッブズやルソー以来の古典的命題みたいだけれど、大事なのはバランス。
悪夢のような5年間を他山の石とし、小沢「信者」と呼ばれないように気をつけなくては、いけない。
プロフィール

日本一新の会 (多摩出張所)

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当出張所では 日本一新の会の皆様の寄稿を随時、募集中であります。よろしくお願い致します。


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