「国民の生活が第一、自立と共生、政治の根本について多摩地区で議論する広場」

<みうらのま> 脳みそ腐ってる。

 「知的劣化」などという言葉がもったいないほど、知的劣化が進行している。
 脳みそ腐ってる。

 稲田防衛相が教育勅語を「まったくの誤りとは違う」と述べた。
 「まったくの悪人」や「まったくの善人」がいないことは誰でも知っている。同じように教育勅語が純度100%「まったくの誤り」であるなんて考えている人は、いるはずない。いるかもしれない、という論理的可能性を仮定することさえ、300万人の犠牲者に対して不遜てもんだ。

 昭恵氏からの寄付の有無について、籠池氏の証人喚問。 「筆跡の違いから寄付金を振り込んだのが職員ではなく詢子夫人の可能性が高いので偽証罪に問う」と自民党の西田昌司議員が言い出し、日テレを中心にメディアが騒いでいる。
 証人喚問の目的は「誰が振込みをしたか」ではない。事実解明が目的ならタテマエでも先に昭恵氏に聞くべきところを、籠池氏の証言に1つでも矛盾があれば、嘘つきとして彼の証言を全面的に否定(社会的に抹殺)できるというホンネをもはや、隠そうともしない。

 「全部が否でなければ可」とする稲田思考と、「一部の否があれば全部を否」とする西田思考は正反対に見えるが、ご都合主義でおんなじだ。「イヌには尾があるから、ネコはイヌである」という程度に、私達の選ぶ議員と、私達の耳目である報道と、そしてたぶん、私達自身の脳みそは腐ってる。

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<みうらのま> 船橋節考(オリーブ千葉 読書会)

 オリーブ千葉の読書会に参加した。
 書生談義や陰謀論に陥らない地に足の着いた人生の諸先輩による話を聞くのが楽しく、ときどき末席を汚している。

 課題図書は「日本会議の正体  青木理」。出版当時は「日本会議の研究」の二番煎じの感があり、立ち読みで済ませたが、偶然にも森友台風の発生に伴い、すこぶるタイムリーな選択となった。

 会合では二見伸明先生による、日本会議の根源を平田篤胤や本居宣長の国学に求めるご指摘はじめ、多くの傾聴に値する意見が述べられたが、なかでもモーゼの海割れのように感じられた、あの瞬間を書かずにはいられない。

 いつも息子さんとの会話を敷衍して舌鋒鋭く持論を展開するMさんは今回も保育所問題などから、現代社会における子育ての困難を語り始めた。隣の女性も、それに大きく、うなずいている。
 そこから、自身のPTA経験などを例にして、今の親が学校教育に依存しすぎる点が責任放棄である、と論を進める。
 実体験に基づく現代子育て批判に是も非もないのだが、熱弁をふるう内容が高橋史朗氏が推進するトンデモ教育論の親学やそれに賛同する人達の意見に限りなく近づいてきているな。。と思っていたところに、二見先生から、
 「だから、彼ら(日本会議)は教育に口を出したがり、憲法で家族を規定しようとしているのだろう」
 という指摘が入り、少しほっとした。
 これに対してMさんは、それまでの力説から1ミリもブレることなく、
 「同じこと!教育を学校に依託するのも、家族を憲法で保証してもらおうとするも、同じひ弱な依存心なの!」

 「あ」という声を私が実際に発したかどうかは分からない。しかし、この瞬間、ダイダラボッチが大河を一跨ぎするのを見た気がしたのだ。
 男たちが大河のホトリでウダウダと「船を作ろう、橋にしよう」とやっている姿こそ、私を含む大半の男たちの心に住む「日本会議的なるもの」ではないか。(ついでにいえば、「船を作るなら、橋を作るなら、オレの友達に」が森友学園問題ではないか。)
 子供に対峙した母は司法にも行政にも頼らず、自分の足で大河を一跨ぎする。しなければならない。これは国家とは別次元の話で。

 楢山節考の最後の場面。息子が夢中で捨てられた母親に会いに行くと、雪の中で母親が無言のまま「来るな」と手で追い払うシーン。独立した個人を育て上げるための子育てというのは本源的に壮絶なもので、文明が進んでも、福祉が充実しても、人が自分ひとりで死と対峙しなくてはならないのと同じで、その本質は変わらない。(そこは子育てを経験する多くの母親に同意してもらえるのでは、ないかしら。櫻井よしこ氏や曽野綾子氏の「母性の品格」をいちど、全国の母親に聞いてみたい。)

 本来、依託のしようがない「生そのもの」に対する逃避と救済の共犯関係という大きすぎる背景が日本会議の向こうに広がっているのを垣間見た気がした。

<みうらのま> 森友学園ー見るものが見られるものへ

 ご多分に漏れず、森友学園問題をウォッチしている。
 厳密に言えば、森友学園問題を通して、「メディアを」ウォッチしている。

 「ネットでここまで騒がれているのに、なぜ、テレビでは取り上げない?」といった声が高まる中、最初に放送したのがテレ東だったというのは愉快だった。
 その後、恐る恐る、ぽつりぽつりとニュース番組が取り上げ始め、視聴率が取れるとみるや、ワイドショウのメディア・スクラムが始まった。
 しかし、よく見ると放送時間は増えたが情報量はそれほどでもなく、問題は矮小化され、コメンテーターは切り離されたトカゲの尻尾と戯れるような具合になっていった。
 ところが、ニュースソースのほとんどを菅野氏に独占され、彼がツイッターを通じてネタを小出しにして情報をコントロールしたことにより、メディアは篭池劇場の政界への延焼を防ぐことに失敗、続いて氏を怪しい人として菅野劇場化する演出にも失敗した。

 通常、メディアが見た「事実」が市民に伝えられる構図が、奇しくも菅野氏のツイートにより、メディアが「事実」を作り出す工程そのものが市民に開陳され、メガネのレンズの汚れを見るように、見るものが見られるものに転換した。この三角測量のような機会を与えてくれた菅野氏に感謝、感謝。

 この構図が生み出した擁護するものすべてをアホに変えてしまう森友学園問題に、火中の栗を拾う田崎スシローや池田信夫はじめ、塚本幼稚園を推薦してきた日本会議の文化人達の忠義心もへったくれもない逃げ口上など、豪華バイキング料理のような1ヶ月ではあったが、いよいよ、明日、籠池氏が国会に登場。

 「民間人を国会に呼ぶのは」なんて抵抗してた連中が、籠池氏が安倍昭恵氏の学園寄付に触れた途端、掌返し。主演の役人や知事の国会招致も、参考人招致もすっとばして、瞬く間に証人喚問が決まった。この経緯からみて、与党はなりふり構わず、味噌樽ズボンを仕込んででも、偽証罪をでっちあげて公開処刑を実行、阿吽の呼吸でメディアは「第2の永田メール事件」と騒ぎ、国有地と設置認可の疑惑を籠池氏に背負わせたまま、闇に葬るつもりだろう。追い込まれたフリージャーナリストが失踪なんてオマケさえつくかもしれない。
 そうなればこの国で、メディアは二度と飼い犬の手を噛むことはなくなり、検察は沈黙し続け、司法は腐り、北朝鮮のような監視国家になってしまう。

 大袈裟に感じる人もいるかもしれない。そうあってほしい。悪い夢は話したほうが現実化しない、悪魔は名前を呼ばれたら消え去る、そう思って縁起でもないことを書いてみた。
 皮肉と魂を込めて言う。皇国の興廃この一戦にあり。
 暴れるトカゲの尻尾をトカゲ本体が軍靴で踏み潰すような籠池劇場の幕引きを許さずに、きっちり、大阪府と財務省の疑惑を暴き、願わくば、でんでん劇場の終演につなげてほしい。

<みうらのま> 酔払うとなくなる記憶について

 酔払うと記憶がなくなる。
 当出張所の面々も同様で、今年の新年会の翌日には反省して「次回の集まりはアルコール抜きでね」と固く誓いあった。
 「権力に対する人間の闘いは、忘却に対する記憶の闘い」ともいう。こんなことでは「日本一新の会」の看板が泣いてしまう。

 とくに私の場合、話した記憶はあるのに誰に話したかは憶えていない、ということも多い。「話したい」が先にあり、相手なんて誰でもいいとでもいうのか。本性が知れるようで、ほんとに恥ずかしい。

 もっとも、酔わなくても記憶力は減退の一途を転げ落ちている。
 しかし、年齢を理由にはしたくない。平野妙観の顔が浮かぶからだ。
 もちろん、アルコールのせいにもしたくない。禁酒を勧められるからだ。

 そこで思いつくのがネット検索。
 ワープロが普及し始めた頃、「漢字が書けなくなった」というオジサマの嘆きを多く耳にした。ネット検索が普及した今、固有名詞を脳ミソから引っ張り出す能力の低下は多くの人に見られる傾向なのではないか。
 飲み屋の会話でも、「えーと、なんつったっけ、あの女優は…」などといって、スマホが登場する機会が増えた。ガラケーの時代なら「忘れる程度のことなら、話題として持ち出すな」という場面ではあるが、関心が高くても固有名詞を記憶しているとは限らないのだから、仕方がない。


 書店で買い求め、読了した直後でも、著者の名前を憶えているとは限らない私などはきっと、ネット社会の最先端で病んでいるのだ。老化やお酒のせいではなく。

<みうらのま> プレミアムな方々によるプレミアムフライデー

 富の再分配は、人類始まって以来、政治の第一義であるが、近代国家においては、司祭と政府が、祭りが行政から、分離独立している、と大学の頃、本で読んだ記憶があります。

 行政の埒外、天下御免でストレス発散することを許される祭りが、民衆を結びつける力になり、やがてそれが、御上に対する民衆の示威行為になっていくのは自然のなりゆきかも、と実感したのが、一昨年、日本一新の会・日田市研修のあとに先輩が案内してくれた、博多と飯塚の山笠でありました。

 といっても、祭りが社会転覆を志向している、とかいう剣呑な話ではなくて、民衆の潜在的エネルギーの誇示は、行政に対する「しっかり仕事をせねば、アレがこっちへ向かってくる(汗)」という圧力になっていて、総体としては社会を安定させるパーツとして機能していた、という考えです。

 そして現代、祭りを失った人達は、生演奏を聞いたり、飲み屋で騒いだりして、ストレスを発散するわけですが、「プレミアム・フライデー」とかいう、御上の掛け声で経済を活性化させようという考え方に私が反感を禁じ得ないのは、ひとえにそれが官製祭りだから、なのであります。

 絶滅の危機に瀕する中間層の可処分所得を遊興費に投じさせるような消費行動を誘起する政策に、「プレミアム・フライデー」と名付けてしまうセンスは、ナチスの「シャワー室」にも通じる事務的作為を感じてしまうのです。

 どうせなら、三社祭の間、浅草では消費税0%!とかのほうが、
 「そりゃ、景気が良いや、ぱーっとやろう、ぱーっと!」
 といった空気が醸成されたりするのではないかしらん。



プロフィール

日本一新の会 (多摩出張所)

Author:日本一新の会 (多摩出張所)
<特別寄稿を募集致します>
当出張所では、森友問題について
「自身でブログを開設するほどではないけれど、ぜひ物申したい!」というあなた様の原稿を
tama.nipponissin@gmail.com にてお待ちしています。報酬はございませんが、必ず(明白な悪意や公序良俗に反する場合を除き)掲載させて頂きます。
よろしくお願い致します。

田吾作、みうら、anndue

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