「国民の生活が第一、自立と共生、政治の根本について多摩地区で議論する広場」

<みうらのま> 印象操作としての総理記者会見


安倍総理の国会における、質問に答えず時間稼ぎをするため手法としては、
・ 修飾語をたくさん入れる(いわば、まさに、など)、
・ 質問を一般化し話し始める(「そもそも政治というものはですね」など)、
・ 質問の主体を中傷する(「だから、民主党の支持率は…」など)、
等が散見されますが、最近のお気に入りの「印象操作」などは、以前から使われている、
・ 質問自体を否定する(「基本的に間違っているのですよ」など)
というパターンの一種でしょう。

国会答弁で繰り返される、「印象操作だ」を聞くたび、私は馬鹿にされている気がします。
私の耳にはそれが、「国民はアホだから、おまえら野党の質問で簡単に印象操作されちゃうじゃねーか、きたねー手を使うんじゃねーよ」と聞こえてしまい、そこに含まれる、「国民はアホだから」という総理の基本認識に反応してしまうからなのですね。

6月19日の会見で総理は国民に向けてこう述べました。

印象操作のような議論に対して、つい、強い口調で反論してしまう。そうした私の姿勢が、結果として、政策論争以外の話を盛り上げてしまった。深く反省しております。

それはつまり、「国民がアホなのを利用して、印象操作する野党のやり方に乗ってしまった、申し訳ない」と、国民に向かって、言っているわけですよね。
これを聞いて、総理に何か謝罪されたと、いい気持ちになっている国民はおりませんでしょうか?
それ、印象操作ですから。
彼が何を「深く反省して」いるかを正確に聞いてみれば、考えられる再発防止が「アホな国民をたぶらかす野党の質問にはもう答えません」であり、その結果が、総理と記者による朗読会のような記者会見だったことには合点がいきます。
「真摯に説明責任を果たしていく」の意味も推して知るべしでしょう。

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<みうらのま> 直観の貧困

感性なんてものがアテにならないことは心得てるつもり。一目惚れを後悔する一生もあったろうし、知的怠慢の正当化にも供されてきた。
ここでは便宜的に、無知や先入観を含む感覚としての「直感」と、証明不能な確信を含む洞察としての「直観」を区別して、後者について考えてみたい。

先日の読書会(内藤正典氏著 「トルコ 中東情勢のカギをにぎる国」)、地理の先生のRさんが「第一次世界大戦後に線を引いた領域国家ていう考え方、これからどうなるのかしら」と話した時、目が合って、ドキッとした。
そうだ、先生てのはこうやって時々、目を合わせて生徒の集中をチェックしていた。聞いているかどうか、立証はできなくても、目が合えばバレちゃう。
続いてMさんの発言、「あの大臣て自分が理解してないことを答弁してるのが、はっきりとわかるじゃない?」。異論はない。でも、それを証明するのは難しい。
この世の中、「(面倒だったり、原理的にムリだったりで)証明はできないけど、確かにわかる」という、直観的領域は意外に広い。

アル中の友人宅を訪ねると、彼は母親と私を置いて「ジュースを買ってくる」と部屋を出た。戻ると、あきらかに酒臭いのだが、指摘するとムキになって否定する。
疑惑を否定しきれさえすればOKで、私が信じるか否かは眼中にないみたい。
スマホ中毒の娘も同様の症状を示しているところをみると、依存症というのは、人と人の間に在る直観的領域を見失いがちな病なのかもしれない。

安倍政権の人達にも同じ症状が散見される。「バレバレでも逃げ切れれば勝ち」という国会答弁の影響は、いまや社会全体に拡散して、信用収縮ならぬ「直観収縮」が懸念される。

恥ずかしながら、私もよく、「私の頭脳で対応できなくて申し訳ありません」という気持ちになる。それでいて心底では「こんな複雑な社会で、何が正しいかなんて、わかるはずもない」と開き直ってもいる。なのに、情報をかき集め、自分なりに考えるのは、頼りない直感を少しはマシな直観に高める努力に他ならない。

ものごとが最終的には多数決で決まる民主主義で、議論という過程を省略できないのは、それが満場一致の理想を求めて止まないからではなく、議論自体が有権者の直観を養うからではないか。
一人ひとりの有権者がそれぞれの努力や経験で培った直観から投じる一票。その総和となる集合知に従えば、「神の見えざる手」よろしく、最適な人を議会に送り、最適な意思決定が得られる(はず)。代議制民主主義の基礎には、そんな公理が埋め込まれているのかな。

今日の文明社会を築き上げた、民主主義というシステムに私は感謝する。
しかし、文明は本能を鈍麻する。直観が本能の道連れになれば、民主主義の基礎が腐り、耐震工事を求める不安の声が高まる。そして現れる「この道しかない」というスローガンの先に私は、ろくでもない厄災しか思い浮かばない。

フェラ・クティは「アフリカに民主主義は通用しない」と言った。彼らは道ですれ違うだけでお互いの力量が直観的にわかるので問題が起きない、と。「democracy」を「demonstration of crazy」と揶揄した彼には、このシステムの欠陥が見えていたのかもしれない。

<みうらのま> 脳みそ腐ってる。

 「知的劣化」などという言葉がもったいないほど、知的劣化が進行している。
 脳みそ腐ってる。

 稲田防衛相が教育勅語を「まったくの誤りとは違う」と述べた。
 「まったくの悪人」や「まったくの善人」がいないことは誰でも知っている。同じように教育勅語が純度100%「まったくの誤り」であるなんて考えている人は、いるはずない。いるかもしれない、という論理的可能性を仮定することさえ、300万人の犠牲者に対して不遜てもんだ。

 昭恵氏からの寄付の有無について、籠池氏の証人喚問。 「筆跡の違いから寄付金を振り込んだのが職員ではなく詢子夫人の可能性が高いので偽証罪に問う」と自民党の西田昌司議員が言い出し、日テレを中心にメディアが騒いでいる。
 証人喚問の目的は「誰が振込みをしたか」ではない。事実解明が目的ならタテマエでも先に昭恵氏に聞くべきところを、籠池氏の証言に1つでも矛盾があれば、嘘つきとして彼の証言を全面的に否定(社会的に抹殺)できるというホンネをもはや、隠そうともしない。

 「全部が否でなければ可」とする稲田思考と、「一部の否があれば全部を否」とする西田思考は正反対に見えるが、ご都合主義でおんなじだ。「イヌには尾があるから、ネコはイヌである」という程度に、私達の選ぶ議員と、私達の耳目である報道と、そしてたぶん、私達自身の脳みそは腐ってる。

<みうらのま> 船橋節考(オリーブ千葉 読書会)

 オリーブ千葉の読書会に参加した。
 書生談義や陰謀論に陥らない地に足の着いた人生の諸先輩による話を聞くのが楽しく、ときどき末席を汚している。

 課題図書は「日本会議の正体  青木理」。出版当時は「日本会議の研究」の二番煎じの感があり、立ち読みで済ませたが、偶然にも森友台風の発生に伴い、すこぶるタイムリーな選択となった。

 会合では二見伸明先生による、日本会議の根源を平田篤胤や本居宣長の国学に求めるご指摘はじめ、多くの傾聴に値する意見が述べられたが、なかでもモーゼの海割れのように感じられた、あの瞬間を書かずにはいられない。

 いつも息子さんとの会話を敷衍して舌鋒鋭く持論を展開するMさんは今回も保育所問題などから、現代社会における子育ての困難を語り始めた。隣の女性も、それに大きく、うなずいている。
 そこから、自身のPTA経験などを例にして、今の親が学校教育に依存しすぎる点が責任放棄である、と論を進める。
 実体験に基づく現代子育て批判に是も非もないのだが、熱弁をふるう内容が高橋史朗氏が推進するトンデモ教育論の親学やそれに賛同する人達の意見に限りなく近づいてきているな。。と思っていたところに、二見先生から、
 「だから、彼ら(日本会議)は教育に口を出したがり、憲法で家族を規定しようとしているのだろう」
 という指摘が入り、少しほっとした。
 これに対してMさんは、それまでの力説から1ミリもブレることなく、
 「同じこと!教育を学校に依託するのも、家族を憲法で保証してもらおうとするも、同じひ弱な依存心なの!」

 「あ」という声を私が実際に発したかどうかは分からない。しかし、この瞬間、ダイダラボッチが大河を一跨ぎするのを見た気がしたのだ。
 男たちが大河のホトリでウダウダと「船を作ろう、橋にしよう」とやっている姿こそ、私を含む大半の男たちの心に住む「日本会議的なるもの」ではないか。(ついでにいえば、「船を作るなら、橋を作るなら、オレの友達に」が森友学園問題ではないか。)
 子供に対峙した母は司法にも行政にも頼らず、自分の足で大河を一跨ぎする。しなければならない。これは国家とは別次元の話で。

 楢山節考の最後の場面。息子が夢中で捨てられた母親に会いに行くと、雪の中で母親が無言のまま「来るな」と手で追い払うシーン。独立した個人を育て上げるための子育てというのは本源的に壮絶なもので、文明が進んでも、福祉が充実しても、人が自分ひとりで死と対峙しなくてはならないのと同じで、その本質は変わらない。(そこは子育てを経験する多くの母親に同意してもらえるのでは、ないかしら。櫻井よしこ氏や曽野綾子氏の「母性の品格」をいちど、全国の母親に聞いてみたい。)

 本来、依託のしようがない「生そのもの」に対する逃避と救済の共犯関係という大きすぎる背景が日本会議の向こうに広がっているのを垣間見た気がした。

<みうらのま> 森友学園ー見るものが見られるものへ

 ご多分に漏れず、森友学園問題をウォッチしている。
 厳密に言えば、森友学園問題を通して、「メディアを」ウォッチしている。

 「ネットでここまで騒がれているのに、なぜ、テレビでは取り上げない?」といった声が高まる中、最初に放送したのがテレ東だったというのは愉快だった。
 その後、恐る恐る、ぽつりぽつりとニュース番組が取り上げ始め、視聴率が取れるとみるや、ワイドショウのメディア・スクラムが始まった。
 しかし、よく見ると放送時間は増えたが情報量はそれほどでもなく、問題は矮小化され、コメンテーターは切り離されたトカゲの尻尾と戯れるような具合になっていった。
 ところが、ニュースソースのほとんどを菅野氏に独占され、彼がツイッターを通じてネタを小出しにして情報をコントロールしたことにより、メディアは篭池劇場の政界への延焼を防ぐことに失敗、続いて氏を怪しい人として菅野劇場化する演出にも失敗した。

 通常、メディアが見た「事実」が市民に伝えられる構図が、奇しくも菅野氏のツイートにより、メディアが「事実」を作り出す工程そのものが市民に開陳され、メガネのレンズの汚れを見るように、見るものが見られるものに転換した。この三角測量のような機会を与えてくれた菅野氏に感謝、感謝。

 この構図が生み出した擁護するものすべてをアホに変えてしまう森友学園問題に、火中の栗を拾う田崎スシローや池田信夫はじめ、塚本幼稚園を推薦してきた日本会議の文化人達の忠義心もへったくれもない逃げ口上など、豪華バイキング料理のような1ヶ月ではあったが、いよいよ、明日、籠池氏が国会に登場。

 「民間人を国会に呼ぶのは」なんて抵抗してた連中が、籠池氏が安倍昭恵氏の学園寄付に触れた途端、掌返し。主演の役人や知事の国会招致も、参考人招致もすっとばして、瞬く間に証人喚問が決まった。この経緯からみて、与党はなりふり構わず、味噌樽ズボンを仕込んででも、偽証罪をでっちあげて公開処刑を実行、阿吽の呼吸でメディアは「第2の永田メール事件」と騒ぎ、国有地と設置認可の疑惑を籠池氏に背負わせたまま、闇に葬るつもりだろう。追い込まれたフリージャーナリストが失踪なんてオマケさえつくかもしれない。
 そうなればこの国で、メディアは二度と飼い犬の手を噛むことはなくなり、検察は沈黙し続け、司法は腐り、北朝鮮のような監視国家になってしまう。

 大袈裟に感じる人もいるかもしれない。そうあってほしい。悪い夢は話したほうが現実化しない、悪魔は名前を呼ばれたら消え去る、そう思って縁起でもないことを書いてみた。
 皮肉と魂を込めて言う。皇国の興廃この一戦にあり。
 暴れるトカゲの尻尾をトカゲ本体が軍靴で踏み潰すような籠池劇場の幕引きを許さずに、きっちり、大阪府と財務省の疑惑を暴き、願わくば、でんでん劇場の終演につなげてほしい。

プロフィール

日本一新の会 (多摩出張所)

Author:日本一新の会 (多摩出張所)
<特別寄稿を募集致します>
当出張所では、森友問題について
「自身でブログを開設するほどではないけれど、ぜひ物申したい!」というあなた様の原稿を
tama.nipponissin@gmail.com にてお待ちしています。報酬はございませんが、必ず(明白な悪意や公序良俗に反する場合を除き)掲載させて頂きます。
よろしくお願い致します。

田吾作、みうら、anndue

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